「猫ブーム」が到来したと言われるようになってしばらく経ちました。そろそろ下火になってきた頃でしょうか。どうやらそういうわけでもないようです。一般社団法人ペットフード協会による「令和5年(2023年)全国犬猫飼育実態調査」によれば、日本では犬の飼育数は減少傾向にある一方、猫の飼育数は微増しつづけており、1ヶ月あたりの猫関連支出総額も過去最高を記録したそうです(1)。猫は今や「ブーム」を超え、人間と共に在ることが「あたりまえ」になったように感じます。みなさんの中にも猫と暮らしている方、猫カフェに通っている方、保護猫活動に興味を持っている方、猫の動画をついつい見入ってしまう方など、猫好きな方が多くいらっしゃるのではないでしょうか。私自身も現在は2匹の猫と暮らしております。私が猫を世話しているのか、それとも私が猫に世話されているのか、もはや分かりません。それはさておき、日本でははるか昔より猫は日本人の傍らにいて、愛されてきました(2)。それほど古い話ではありませんが、私の子どものころからキティちゃんは人気でしたし(3)、1980年代の「なめ猫」ブーム(4)もかろうじて記憶に残っています。では、今日の猫ブームは、これまでとどのような違いがあるのでしょうか。
今日の猫ブームのさなか「猫社会学」といった新しい学問も誕生しました(5)。人間以外の動物、モノ、人工知能(AI)などを社会のアクターとして認めるポストヒューマン(脱人間中心主義)社会を構想しようとする考え方がそこには含まれており、とくに社会のアクターとしての猫の存在感の大きさに着目したわけです。実際、日本には900万頭以上の猫がペットとして暮らしており、この数はスイスの人口とほぼ同じになります。そして、その数は着実に増え続けています。また、関西大学名誉教授の宮本勝浩は2024年における猫の経済効果は約2 兆 4,941 億円にのぼると試算しています(6)。2年前より約5,000億円も増加しています。誰の目から見ても猫の存在感が大きくなっているのは、これら数字の上からも明らかです。
生物学などの理系学問はもとより、社会学をはじめとした人文社会系の学問領域における猫への着目は、猫と人間、猫と社会、猫と自然、さらには猫と宇宙との関係からアイディアを得て、限界をむかえた人間を中心とした社会を持続可能なものに作り変えていこうとする営みに発展していくと私は期待しています。すなわち、≪猫から学ぶ人間≫像を構築しようとする挑戦がはじまったと言えるのではないでしょうか。ここに現在の猫ブームの特徴を見ることができます。新形コロナウイルスによるパンデミックが世界を襲ったことは記憶に新しいはずです。世界各地で戦争が勃発し、核戦争の足音が近づいているかのように感じます。異常気象や自然環境の急激な悪化など、生態学的危機が肌で感じられるようになってきました。これらグローバルな問題が私たちの生活に直接、物価高というかたちで影響を与えています。科学技術の進歩によってAIが社会のあらゆる場面に浸透することで、近い未来に私たちの仕事の多くが失われてしまうかもしれません。メディア空間の中には≪卒業後に備えて、10年後に備えて、老後に備えて、死後に備えて≫などといった未来への不安をかきたてる言説で満ち溢れています。「猫ブーム」とは、こうした暗い未来予想図を前に途方に暮れるしかない私たち人間が、一斉に猫に助けを求めることで生じた現象であるかのように見えてなりません。そこにあるのは「もふもふ」からもたらされる癒しだけにとどまらず、猫の生き方への憧憬なのではないでしょうか。
ここでちょっと考えてみましょう。「猫社会学」はアリだとしても、「猫教育学」は可能なのか、と。誰もが知っている「猫に小判」「猫の手も借りたい」ということわざや慣用句は、猫を「無知」で「無能」だと捉えてきたことを意味しています。つまり、猫は教育からかけ離れた存在、教育する意味のない存在として見られてきたわけです。では、人間が猫を教育することは難しいにしても、逆に人間が猫から学べることも無いのでしょうか。それは違うはずです。私たちは≪猫から学ぶ人間≫になろうとしているのですから。まさにコペルニクス的転回です。そうなると次に考えなければならないことは、人間が猫から学ぶことは何か、ということです。
≪猫から学ぶ人間≫の存在は、実は日本では古くから一部の人々の間で認められてきました。そのことがわかる1つの資料として「猫の妙術」を紹介いたしましょう(7)。「猫の妙術」とは、江戸時代中期、佚斎樗山(いっさい・ちょざん、1659~1741年)によって書かれた剣術書です。宮本武蔵の「五倫の書」などとともに、武道家にとって必読の書と言われており、幕末から明治にかけてのリアル「剣聖」山岡鉄舟の愛読書であったとも伝えられています。「剣聖」はマンガの中だけの存在ではありません。
さて、内容をおおざっぱに言えば、ある老猫が真の剣術、さらには真の生き方を人間に説くという内容です。実際の猫が剣術について追究できるはずないですし(そもそも、あの肉球では剣はにぎれません)、ましてや自分の生き方について悩むなんてこともないでしょう。つまりこの書は佚斎自身の言葉を老猫に代弁させただけのものと言えなくはありません。しかし、なぜあえて猫に語らせたのでしょうか。それは人間よりも猫に語らせた方が剣術の本質を言い表すことができると考えたからではないでしょうか。真に正しい生き方は、人間には理解しにくいけれど、猫には見る力があると考えていたからなのではないでしょうか。
では、この書では真の生き方とはどのようなものだと説明しているのでしょうか。もう少し内容をくわしく見てみましょう。剣術家の勝軒(登場する生き物の中で数少ない人間)の家に大きなネズミがあらわれます。勝軒は大ネズミを退治するために、自分が飼っていた猫や、ネズミ捕り自慢の近所の若い猫たちを送り出すものの、ことごとく返り討ちにあってしまいます。最後に名人と評判の老猫を連れてこさせるのですが、その見た目はひどく老いぼれていて覇気がまったく感じられません。ところが、いざ大ネズミに向き合うと、のらりくらりと“敵”を追いつめ、たいした抵抗をされることもなく、簡単に捕まえてしまいます。
その後、若い猫たちは自分の敗因を老猫に問います。黒猫は相手を組み伏せる「技」を鍛錬したことを、少し年上のトラ猫は相手を威圧する「気迫」を修行したことを、さらに年上の灰猫は相手に合わせる「調和」を練ったことを得意げに話します。しかし老猫はそれらは全て“不自然”な働きかけであり、表面的スキルにすぎないと一蹴します。「技」と「気迫」だけでは強い剣術家にはなれないことはわかります。力と勢いは立派だけど人格が残念な人はみなさんのまわりにもいるのではないでしょうか。だいたい自分勝手な人のはずです。では、相手の考えや行動を“読む”「調和」は何が問題なのでしょうか。他者に配慮できる人の課題とは何なのでしょうか。いわゆる“いい人”のような気がしますが。
「猫の妙術」に戻りましょう。灰猫は、相手にさからわず、相手に合わせることで、自分から手の内に入って来るまで粘り強く待つ、という戦法でいどみました。今風に言えば、「君かっこいいね」「大変だったね」「怖くないよ」みたいな雰囲気を出して誘導しようとしたのでしょう。しかし、大ネズミは灰猫の心の内を見透かして噛みつきます。老猫は敗因を次のように説明します。相手をああしよう、こうしよう、という「目的」を前提にして相手に合わせようとしても、それは自然の「調和」ではないため、すぐに見破られてしまう。なぜならば、そこには“不自然”な空気がただよっているからだ、と。
では、どうしたらよかったのでしょうか。老猫はこのように言います。無心になり、自分を捨て、自然に逆らわず、世界と自分を一体化させる。そうすれば、その中では自分も他者も違いが失われ、すなわち“敵”の存在も無くなる、と。老猫が言っていることは、世界中で注目されている「瞑想」を重ねることによって到達できる終着点のように感じられます。詩人で民俗学者のアンドルー・ラングも「すべての動物の中で猫だけが瞑想的に生きている」と述べています(8)。私はその境地にまったく至っておりませんので、老猫の考えを正しく説明することができません。しかし、若い猫たちが抱える課題についてはみなさんも理解できるのではないでしょうか。
たとえば、灰猫が言う「調和」がかもしだす“不自然”さはどうでしょう。これは、教師と生徒との間に、親と子の間に、大人と子どもの間に、しばしば見ることができるのではないでしょうか。生徒の将来のために、子どもの幸せのためになど、〇〇のためにという「目的」に含まれる“うさんくささ”を感じたことがある方も多いのではないでしょうか。こうした目的の裏にある、子どもを自分や社会にとって都合の良い存在にさせようという意図を感じとって。
みなさんも感じたことがあるはずの “うさんくささ”から「猫教育学」の可能性を考えてみましょう。そもそも教育とは目的があってはじめて成立する活動です。だからこそ、教育基本法の第1条が「教育の目的」なのです。目的を明確にすることで教育の内容が定まり、それによって教育の方法を選択でき、それによって評価の方法も決定できるのです。したがって目的は教育の大黒柱なのです。だとすれば、教育とは灰猫が行い、失敗したような「相手をああしよう、こうしよう、という『目的』をもって相手に合わせ」る“うさんくさい”営みにならざるをえないということになります。
哲学者の國分功一郎は次のように言います。「人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある」と(9)。たしかに目的は重要です。目的を失った人間は、しばしば生きる意欲も失ってしまいます。一方で、目的は無数にある未来の可能性の1つにすぎません。目的によって見えなくなってしまったもの、失ってしまったものが無数にあるのです。“友だちをたくさんつくる”という目的が、一人一人の友だちと深くつながるチャンスを失わせたり、孤独を楽しむスキルを失わせたりする具合に。
さらに、≪卒業後に備えて、10年後に備えて、老後に備えて、さらには死後に備えて≫などの未来に向けての目的ばかりに目を向けていれば、≪今ここ≫の幸福を省みることを妨げてしまうかもしれません。未来とは今の積み重ねにすぎないはずなのに、≪今ここ≫の感覚を麻痺させ、根拠のない未来に「絶望する人間」を、根拠のない未来を「夢見る人間」を育成することが教育の目的になってしまってはいないでしょうか。
その一方で、老猫は教育そのものは否定してはいません。老猫は教育の役割をこう言います。教育で教えることができるのは、技術や知識だけなのだと。そして、真理に至る道筋は自分自身で見つける他にないのであって、教師は本当は自分の中に備わっているのに、気づけていないことに気づかせることなのだ、と。もちろん、剣術の教師と、現代の学校の教師とを同じに考えることはできません。しかし、膨張しつづける見えない不安に備えるための膨張しつづける教育を眺めた時、老猫の言葉は私たちにとって重たい課題であるように感じられます。
ここに「猫教育学」の方向性が見えてきます。教育は「目的」無しには行えません。そうであるならば、“うさんくさ”いものであり必ず失敗することを大前提とした上で、未来に向けた目的だけではなく、≪今ここ≫に目を向ける「猫に近づく」目的の教育を考えましょう。東京大学先端科学技術研究センターの中邑賢龍も「LEARN(ラーン)」のプログラムにおいて、イノベーションのためには「目的のある計画的な学びではなく、無目的で無計画な学びが不可欠」だと述べています(10)。今の瞬間自分の体内に生じた興奮や喜び、心地よさなどを大切にする教育があってもいいのではないでしょうか。
立ち止まって猫を眺めてみましょう。一番気持ちの良い場所で、何とも言えない幸せそうな表情で寝ているかもしれません。その姿から人間の生き方について改めて考えなおしてみてはどうでしょうか。そこから「猫教育学」がはじまります。
(1)一般社団法人ペットフード協会「令和5年(2023年)全国犬猫飼育実態調査」(https://petfood.or.jp/data-chart/)
(2)桐野作人・吉門裕『猫の日本史』戎光祥出版、2024年
(3)正式名称は「ハローキティ」。1974年に誕生。
(https://hellokitty50th.sanrio.co.jp/biography/)
(4)1980年、猫に人形の服を着せた事がきっかけで「なめ猫」誕生。
(https://nameneko.co.jp/)
(5)赤川学編著『猫社会学、はじめます』筑摩書房、2024年
(6)「関西大学プレスリリース」2024年2月15日
(https://www.kansai-u.ac.jp/ja/assets/pdf/about/pr/press_release/2023/No57.pdf)
(7)佚斎樗山、石井邦夫訳『天狗芸術論・猫の妙術』講談社、2014年
(8) ステファン・ガルニエ、吉田裕美訳『猫はためらわずにノンと言う』ダイヤモンド社、2017年
(9)國分巧一朗『目的への抵抗』新潮社、2023年
(10)「『それでいいのだ!』の教育で子どもを応援する 東大先端研が取り組む『LEARN』とは?」朝日新聞EduA、2022年4月26日
(https://www.asahi.com/edua/article/14602941)