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ベトナム東遊運動と横浜中華街

教員コラム
2013.06.28
現代社会学科
橋本 和孝

明治時代、横浜中華街には、祖国の独立や改革を目指すアジア系外国人が在住していました。その中に『新民叢報』を出版していた中国人ジャーナリスト、粱啓超がおりました。『新民叢報』は、福沢諭吉や西洋の啓蒙思想の紹介を行い、1902年から1907年まで全96号が出版されました。しかし、33号までは山下町152番地で、明治36(1903)年6月頃発行の34号から最終号までは山下町160番地で発行されたのです。その粱を尋ねたベトナム民族独立運動家が、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)だったのです。ファンは、日本が黄色人種で唯一近代化を進めた国だとみなし、フランスからの独立運動の援助を明治政府に求めようとしたのです。

 

現在の山下町160番地

 

明治38(1905)年5月末か6月神戸に上陸したファン・ボイ・チャウは、横浜に到着後、粱を尋ねました。ファンの著書の一篇で粱啓超の「まえがき」が記された『ベトナム亡国史』(1905年)は、横浜で執筆されたものでした。突然粱を尋ねた ファンは、数時間筆談で会談し、翌々日には粱啓超によると「横浜の山の手の、太平洋に臨んだ小さな酒楼」で会談したのです。

 

ファン・ボイ・チャウ記念館(フエ市)

 

ファンが横浜で居住した2階建ての日本家屋は、丙午軒(ビンゴウヘン)と呼ばれ、東遊運動(ベトナム版「日本に学べ」運動)の拠点となったのです。場所は特定できませんが、中華街以外には考えられません。明治39(1906)年にはベトナム皇帝の子孫であるクォン・デ(彊柢、畿外候)と改革派のリーダーであったファン・チュウ・チン(潘周楨)が、 丙午軒に滞在しました。ファン・チュウ・チンは、フランスからの独立に先行して近代化が必要とみなし、帰国後の1907年に東京義塾を開学したのです。同年、丙午軒は東京に移動し、200人以上の若者や子供が勉学に励んだのです。

 

ファン・チュウ・チン廟(ホーチミン市)


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