携帯電話が生活の中に侵入してきてずいぶん経った。私も確かにそうだが、学生たちも大いに使っている。最近では、スマートフォンで調べ物もしているようだ。あまりに使用頻度が高いので、ゼミ生に「携帯電話を使わないとどうなるか」と質問してみた。すると、「そんな生活はありえない」、「携帯がなくなったら本当に困る」と強く主張したものだから、こちらもムキになって「じゃあ、実験してみよう。携帯電話を1週間没収する」と宣言した。まぁ学生たちの反発の強いこと強いこと。それでも、強権発動をしてゼミ生全員から携帯電話を取り上げた。その代わりに(代わりにならないが)、小さなメモ帳を渡して、携帯電話を使いたくなった状況と使用できない不快指数を記入してもらった。
携帯電話を没収したら何が起こるか。PCや固定電話、ゲーム機などその他の機器は使用することは許可し、単に携帯電話が使えないことでどんな場面で不便を感じるのか、どれほどそれに頼って生活しているのかを確かめてみたのである。
1週間後、携帯電話を返却するとともにノートを回収した。これを見てみると意外と面白いことが見えてきた。
携帯電話と書いてきたが、もはや「電話」ではない。電話ができないことで不便だと思った割合は全体の7%でしかなかった。圧倒的に不便を感じたというのは、メールができない・メールチェックができない場面で27%だった。そして、面白かったのは、「特になし」の22%であった。これは、別に何かをするでもなく何となく「ケータイ」を触りたいのに「あっ無かった」と不快に感じていたというのである。まさしくケータイをいじるのがいつもの習慣になっていたのである。
ところが、不快指数は1週間後にはずいぶん低下していた。「意外とケータイがなくても生活できる」と感じだしたというのである。もちろん、「彼女から連絡がないと怒られた」、「返信できなくて友人と気まずい関係になった」、さらには「連絡が取れなくなった親が上京しそうになった」とさまざまに影響が出ていた(申し訳ない)。ただ、「実験中は人間関係から解放されたようで、少しホッとした」という学生もいた。
ケータイを返却したときに、ゼミ生たちは「この1週間で溜まったメールや留守電がゼロだったらどうしよう」と笑いながらも不安を口にしていた。学生さんたちの微妙であるが、とても気にしている友人関係が垣間見えた瞬間であった。
ときには煩わしさも感じつつも友達を大切に思う、といった人間関係の心的距離感をはかる役割を「ケータイ」は担っているのではないか、そんなことを感じさせる実験であった。