入学者選抜情報

ニュース

ホーム > 教員コラム > バリの父—三浦襄の墓をめぐって—

バリの父—三浦襄の墓をめぐって—

教員コラム
2018.08.03
現代社会学科
橋本 和孝

 昨年(2017年)より仲間の研究者とともに海外日本人社会研究に関わることになりました。海外といっても東南アジア、とりわけインドネシア、シンガポール、ベトナムです。インドネシアはバリ島です。バリ島は観光のメッカ、日本女性に人気のエリアですが、私達の目的は、観光ではありません。海外日本人社会と言っても、明治以降に限定しても150年の歴史があり、戦後だけでも73年もの長期に及んでいるので、もしすべてについて研究しだしたら並大抵のことではありません。
 
 私は、インドネシアのバタム島は行ったことがあります。しかし、バリ島は初めてで、『地球の歩き方 2017〜18 バリ島』をめくって、研究仲間や現地の研究者にインドネシア独立戦争に参加した日本人を祀っている“マルガ英雄墓地公園”に連れて行ってもらいました。そのことに刺激され、今度は州都デンパサールの“三浦襄の墓”を見たいと思いました。彼は戦前「バリ社会の向上やインドネシア独立のために尽力した」と、『地球の歩き方 2017〜18バリ島』に書かれています。
 
 そこで、あるはずの三浦襄の墓を探したのですが、いくら探してもありません。バドゥン墓地の一角にあるはずなのですが、くまなく探してもないのです。結局、撤去されたのだろうということで、しぶしぶ納得致しました。それから半年が経ちました。シンガポールに行くついでにバリ島を再度訪問することにしたのです。フィールドワークの基本は、徒歩で探すです。私は、デンパサールのバリで最初に出来たホテルに泊まり、三浦襄がこの地で自転車修理店を開業していたといわれるガジャマダ通りを歩き、小雨にも負けず、距離にして2キロ弱、再度バドゥン墓地に向かったのでした。
 

 
 墓地の北側のグヌン・バトゥカル通りは、前回タクシーで通りすぎて探していなかったのです。5分ほど歩いたでしょうか。すると右側に「バリの父と呼ばれた三浦襄翁の墓」の看板が目に飛び込んで来たのです。小道を歩くと立派な墓石と2種類の慰霊碑が出現したのです。この墓は1988年に建て替えられたのか、1988年5月に日本バリ会が修復したものと見なされます。三浦襄の父は日本基督教会の牧師で母はバプティストの信者でありました。
 

 
 翌日、再度ウダナヤ国立大学のイマダ・ブディアナ講師とともに訪れましたが、彼によるとンドネシア語の慰霊碑は日本文の慰霊碑と異なるものだそうです。日本語の方は1945年9月7日付けの彼の遺言が掲示されていますが、インドネシア語の方は9月19日に死後12日を記念する儀式での演説の要旨です。バリはヒンドゥ教のメッカですから、ヒンドゥ教の葬儀の一環でしょう。その要旨は、「誰もが翁を『私たちの父』だと思っていて、翁の親切心はすべての人に知られています。幾千人もの人々が翁に助けを求めました。翁は人々を助けるために地位、ランク、尊卑、国籍を区別しませんでした。翁は自分の息子のように人々に接し、アドバイスしました。….翁の魂はバリの人々と永遠に一緒に留まっており、バリ島人が高貴な理想を達成する際の基礎となるものです」。
 

※クリックで画像拡大
 
 三浦をどう評価するかは、実は単純なことではありません。しかし、彼が「バリの父」として尊敬されていたことは事実です。私は直ちに『地球の歩き方』サービスデスクに対して訂正情報を送りました。その結果、『地球の歩き方 2018〜19バリ島』には正しい場所が記載されたのです。なお三浦襄伝については、正確ではない所もありますが、長洋弘著『バハ・バリ 三浦襄』(社会評論社、2011年)があります。
 

※クリックで画像拡大
 
 
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
◆ 教員コラムバックナンバーはこちら ◇
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


ADMISSION

入学者選抜情報
関東学院大学では、受験生一人ひとりが実力を発揮できるように、
多彩な選抜試験制度を用意しています。
下記から受験方式、日程、受験可能な学科などを絞り込んで、あなたに最適な受験方法を探してみてください。