KYとは、「空気が読めない」の略語で、その場の支配的な空気を察することができず、逸脱した発言や振る舞いに及ぶことをいいます。このことばは2006年頃から女子高校生の間で使われはじめ、今や若者言葉の域を超えて広く使われるようになり、「KY内閣」をはじめ数多くの流行語を生み出してきました。
いうまでもないことですが、このことばは、みずからが空気を察知する能力がないことを自嘲するものではなく、他者の無能力を嘲笑するものです。しかし、なぜ今、こうした言葉が人口に膾炙するようになったのでしょうか。その背景を探ることにしたいと思います。
ここでは、KYをめぐるごく一般的な相互行為を想定してみましょう。「あの人KYよね」とAから話しかけられたBは、同調への圧力を感じながら答えを迫られます。そのとき、Bに許された選択は、(1)「そうね」とAへの賛同を示すか、(2)はぐらかすか、(3)「そんなことないと思うんだけど」とAの意見を否定するか、です。(1)を選択すれば、その場で形成された輪の中に無事留まることができるが、(2)や(3)を選ぶなら、それは、即、その輪からBが外されることを意味し、Bは、KYを理解できないメタKYとして、KのKYよりもさらにKYであるとのラベルを貼られることになるでしょう。
そうであるならば、Bが(1)を選ぶ可能性が高いことは明らかです。いいかえれば、相互行為場面での構造的圧力が主体的な行為の道を閉ざすことがままある、といえます。 では、そもそもKは誰が定めるものなのでしょう。それは、場を支配するものは誰なのか、という、「権力」にかかわる問題です。もちろん、Aは、「あの人KY」と発言する前に、このことについて熟知していなければなりません。つまり、その場のKを構成するのは居合わせた人々のうち誰と誰なのか、そしてかれらがKYをめぐる共謀に参加する確率はどの位なのか、あるいは予想外のメタKYが出現したばあい、どのような処置をするのか、といった数々のバーについて検討を加えた後、勝算ありの想定のもとに、「あの人KY」と言い及ぶのです。
もうお気づきでしょう。こうしたせめぎあいは、古典的な社会学用語でありながら、対面的相互行為の場面では常に問題とされる「状況の定義」にかかわることなのです。状況の定義とは、ある場面に居合わせた人びとが下す、その場の意味づけのことをいいます。これを端的に表現したタマスの公理によれば、「もし人が状況を真実であると捉えるならば、その状況は結果において真実である」というもの。
しかし、ここで重要なのは、定義を下すとされる人びとの正体はいかなるものなのか、なぜ今、ここで、そして、どの程度の勝算をもって状況の定義を行うのか、ということです。K、すなわち「空気」」ということばは、その場でなされる状況の定義が居合わせた人びと全員によるものではなく、しかもきわめて流動的であいまいなものである、という意味を含んでいます。それゆえ、「あの人KY」としたAは、勝算をもちつつも、賭けをしていることになります。その意味では、KY発言は一種の遊びの要素を含んでおり、それがゲームに長けた若者たちに受けた一因でもあるでしょう。
問題なのは、こうしたゲームが、意識的にせよ無意識的にせよ、「排除」の論理を内包していることです。つまり、仕掛けた側の勝ちがすでに決まっているゲームなのです。それゆえ、若者たちは、仕掛けた側が定義した「空気」に従いながら、その場その場で形成されるアドホックな集団の論理に翻弄されながらも必死に排除の圧力から逃れようとします。KYとは、そのような現代的な場の論理が作り出したサバイバルのための装置のひとつなのです。
(現代社会学科 吉瀬雄一)