教員紹介

社会学部教員コラム vol.45

2012.07.20 現代社会学科 安井 聖

大学礼拝―はばかることなく、神の前に―

文学部では毎週火曜日の昼休みに、大学礼拝を行なっています。大学礼拝と一口に言っても、内容はバラエティに富んでいます。大学の近くにある教会の牧師さんをお招きしてお話をしていただくことが多いですが、日本人だけでなく、アメリカ人、タイ人、マレーシア人など、いろいろな国の牧師さんが聖書のお話をしてくださいます。また、キリスト者のゴスペルシンガーに来ていただいて、神のたたえる歌を歌っていただくこともあります。そんなふうにいろんな形式で礼拝を行ない、聖書が語る神に学生の皆さんが親しみを持ってくれたら、と心から願っています。

聖書はいろいろなことを語っている書物です。しかしいろいろなことを語りながら、一つのことをわたしたちに伝えようとしています。聖書はわたしたちに、神がどんなお方であるかを、一所懸命に語りかけているのです。

 

新約聖書の中に次のような言葉があります。

 

「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル人への手紙第4章16節)。

 

 

 

「はばかる」とは、もともと「幅を取る」という意味の言葉だそうです。横に幅を取ると、「憎まれっ子、世にはばかる」という言葉のように、横柄な姿を表します。縦に幅を取ると、相手と自分との間に距離を置くことを意味します。ですからはばかるとは、相手に近づくことができない姿、相手を近づけることができない姿なのです。

でも聖書はこう語りかけます。「はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。神の恵みの御座に、神の前に、遠ざかるのではなく、はばかることなく、遠慮なく近づこう。わたしたちが誰かの傍に近づきたくないと思うのは、こんな自分を相手は受け入れてくれないのではないか、拒絶されて傷つけられるのではないか、と心配しているからかもしれません。はばかってしまうのは、相手のことを気遣っているようでいて、実は受け入れてもらえないと思う自分の弱さ、醜さに心奪われてしまっているからではないでしょうか。

この言葉の直前に、聖書はこう語ります。「この大祭司(イエス・キリストのこと)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。聖書はイエス・キリストこそ「人となられた神」と言っています。イエスは弱さを知らない強い人間として歩まれた、というのではありません。神であるイエスはわたしたちの弱さを、同じようにご自分の弱さとして経験してくださった。わたしたちが自分の弱さ、不甲斐なさを思い知らされる時、神はそんなわたしたちの悲しみを、辛さをちゃんとわかっていてくださるのだ、この聖書の言葉はそう語りかけています。神がそういうお方だからこそ、はばからないで、遠慮しないで、神の前に近づくことができるんだよ、そう語りかけているのです。聖書が語る神とは、そんなお方です。

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