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給食のカレー中止は、ある意味「適切」な配慮?

教員コラム
2019.11.13
現代社会学科
新井 克弥

【給食のカレー中止に因果関係、相関関係はない?】
神戸市立東須磨小で発生した教員間暴力の際にカレーが使われ、これを踏まえてカレーが給食として出されることが中止されました。そして、この対応に非難が浴びせられています。曰く「カレーに罪はない」「そもそもカレーとイジメ(正しくは暴力なのですが、学校で発生したため、なぜか「イジメ」と表記されることが多い(笑))に何の因果関係、相関関係があるのか?」「意味がわからない」「問題はそこではない」「責任逃れだ」「なにふざけてんだ!」などなど。今回はこの議論をちょっと別の視点から考えてみようと思います。つまり、次のようにも考えられるわけです。
 
皆さん、完全に間違っていますよ。給食のカレー中止は全くもって正しい判断・配慮なのです。カレーとイジメの間に因果関係、相関関係があるか?因果関係というのはカレーを食べることによってイジメを結果する、あるいはイジメをすることによってカレーに対する食欲が昂進するという考え。そんなもの、もちろんありません。相関関係は、因果関係はわからないけれどカレーを食べる人はイジメをする傾向がある、あるいはイジメをする人はカレーを食べる傾向があるという考え。そんなものも、もちろん、ありません。
 
でも、カレーとイジメの因果関係、実はバッチリあるんですよ。だから、中止するのは配慮としては残念ながら「適切」(※カッコ付きである点にご注意ください)なんです。
 
【学生たちの英語トラウマ】
全然関係のない話で説明してみましょう。
僕の所属する社会学部は河合塾で45、ベネッセで51という偏差値(世間で言われているほど、そんなに偏差値が低いわけではありません)。偏差値というのは知能を測る目安の一つ。とりわけ処理能力を見極めるのに便利な基準です。もちろん、これ自体が頭の良し悪しを判断するわけではありません。これに統合能力やコミュニケーション能力が加わって、総合的に「頭の良さ」は決まるわけなんですが、世間的には「偏差値の高さ=頭の良さ」というステレオタイプがまかり通っている(こんな単純な基準を信じ込んでいる人こそ「頭の悪い人」なんですけどね)。
 
で、このくらいの偏差値だと、学生たちは自らを「負け組」と認識している人が多いのも確かです。実際、関東学院社会学部学生の多くが早慶上智、GMARCH、日東駒専と呼ばれている大学を落ちてやってくる。こういう学生は受験へのコンプレックスが強い。
 
彼らに共通する問題は「英語」がダメだったことです。というのも、英語は数学と並んで処理能力を最も問われる科目。そしてほぼ全ての一般入試の試験科目として設定されています。しかし処理の訓練を受けていないので高偏差値が取れなかったわけです(言い換えれば、訓練を受けていれば、ほとんどの人間が獲得可能なスキルです)。
 
だから、彼らは「自分は英語が出来ない。なので受験戦争に負けた」という、ヘンなトラウマ=コンプレックスに苛まれています。たとえば授業中、突然英語の話をするととても面白いことに。彼らは、この話を反射的に拒否することがしばしばあるのです。つまり「その話は辛い。や・め・て!」
 
その一方で、こんなこともありました。僕は毎年、自分の学生をタイに連れて行ってフィールドワークをやってもらっているのですが、実施に先立って彼らに100程度のタイ単語を学んでもらっています。まあ、簡単な挨拶とか、トイレの訊ね方とか、料理のメニューといった、たわいのないものなのですが、これを覚えてタイに行くと面白いことが起こる。彼らはたった100程度の単語を使ってタイ人とコミュニケーションを始めるのですが、実に楽しそうにこれを駆使するのです。
 
ある日、その中の一人が僕に言いました。
 
「先生、タイ語はこんなに楽しいのに、なんで英語はあんなに辛いんでしょう?」
 
僕は、次のように返答しました。
 
「君たちは英語が辛いんじゃない。中学から英語を勉強する中で得てきた英語にまつわる経験が辛いんだよ。つまり英語が出来なかったから受験がうまくいかなかった。このトラウマが君たちの英語への辛さの原因。一方、タイ語にはそれがない。だから嬉々として使っているわけなんだよね。英語それ自体には罪がないんだ。もし、英語にこうしたトラウマ的経験がなかったなら、英語が辛いことにはならなかったはず。タイ語みたいに楽しめたはずだよ!」
 
こうした英語にまつわる経験に対するもうひとつの、そして裏のメタな認識レベルのことを、言語学では共示義(connotation)と呼んでています。たとえば、ベンツを購入する動機の多くは「移動手段」という機能面でのベタな理由(これは表示義(dennotation)と呼びます)よりも、「ベンツに乗ることはステイタス」という共示義に基づいている。彼らにとって英語はこのネガティブバージョンというわけですね。これがトラウマの源となっている。
 
【カレーとイジメのメタ因果関係】
さて、話を戻します。今回のカレーは、この共示義(connotation)の立ち位置からみると、完全に因果関係があるとみなすことが出来ます。彼らは自分たちの先生が「カレーを用いて同僚の先生を虐めた、あるいは虐められた」というネガティブな認識を持っている可能性が高い。とすれば、給食にカレーが出てくることで「先生が虐められた」「先生が虐めた」というトラウマ=共示義が現れる。原因=カレー、結果=イジメという図式がこちらのレベルで成立してしまっているわけです。もし、学校側がこうした前提に基づいているとすれば、カレーを給食に出さないという配慮は全くもって適切な対応と言わざるを得ません。カレーそのものには何ら責任はありませんが、カレーにまつわる共示義=経験が因果連関的に問題となるというわけです。
 
さて、ここまでカレー給食中止という配慮の、いわば「メタ因果関係」レベルでの「適切性」を展開してきましたが、ご了解いただけたでしょうか。
 
【心の骨粗鬆症】
で、ここから一気にちゃぶ台返しをします。こうした配慮は、実はその立ち位置を振り返った場合、不適切なものになってしまいます。つまり、問題はこのメタ因果関係に基づいてカレー中止という配慮を行う際に、学校側が考えた「適切さ」の立ち位置にあります。
 
はっきり言いましょう。実は、こちらのほうこそが「なにふざけてんだ!」なんです。
 
ここ十数年くらいの間に生まれた言葉に「心が折れる」「心のケア」があります。僕はこのことばがあまり好きではありません。これらは哲学・社会学用語で説明すると構築主義的に作られた言葉です。構築主義とは、ざっくり言ってしまうと、新しいことばが作られると、それが現実になるという考えです(たとえば統合失調症(分裂病)、LGBT、まったりとした味などの表現が構築主義的に誕生した典型的なことば。ちなみに構築主義が良いとか悪いとかはありません。これはいわばシステムなのでニュートラルなものです)。カレー給食をやめるというスタンスは、児童が「心が折れないように」、言い換えればカレーを提供することで先生間で発生したイジメが想起されるようなネガティブなトラウマが発生しないように「心のケア」を行うという配慮でしょう。
 
でも、誰がこんなひ弱な子どもを作ったんでしょうか?この程度のトラウマでも簡単に心が折れる恐れがある。だから折れる前に心のケアをすべきということなんでしょうか?でも、それじゃあまりに脆弱性が高すぎませんか?この程度で心が簡単に折れるんなら、子どもたちはいわば「心の骨粗鬆症」。すぐにポキポキ心が折れる可能性が高い。だからこそ早めの心のケアが必要だということなんでしょうか?
 
しかし、この程度で心が折れる子どもたちが大量にいたとしたら、実はそちらのほうがはるかに問題であることに気がつかなければならないはずです。いわば、彼らは「心のカルシウム不足」。ということは、こうした対応をする前に大人側は子どもたちに心のカルシウムを投与し、強靭な心、簡単には心が折れないような丈夫な骨を作ってあげる必要があります。そうすれば、カレーとイジメの因果関係など想起されなくなる、あるいは想起したとしても乗り越えられるはずです。その対処法は、もちろん教育にあります。ただし、これは学校教育に限定されるのではなく、家庭内教育も含む、いや社会全体が取り組むべき「心のカルシウム不足対策」なのです。
 
ところが今回行われた学校側の対応は、いわば「折れた骨に添え木を当てる、あるいは松葉杖を与える」と言った対蹠療法(応急処理的な、その場しのぎの対処法)。ということは骨粗鬆症自体は改善されないどころか、放っておくとカルシウム不足は昂進するので骨粗鬆症のさらなる悪化を招く危険性が高くなる。そうすると、より高度な添え木や松葉杖が必要になってくる……という悪循環が発生します。でも、なんでこんなその場しのぎの配慮を行ったんでしょうか。それは、ようするに配慮を行う側(学校側)もカレーとイジメの因果関係を想起してしまうような脆弱な心を持っていたからではないでしょうか(あるいは、単なる「責任逃れ」かもしれませんが?)。言い換えれば、配慮を行った側がすでに骨粗鬆症。そして、添え木・松葉杖を当てることしか対応策を知らない。そして、その対蹠療法を子どもに施すことによって、今度は子どもがさらに心の骨粗鬆症になっていくという悪循環が発生しているのです。
 
【心が折れないための心のケアの必要性】
心が折れないように心のカルシウムを提供する方法は、当然のことですがこうした心の脆弱化のスパイラルを止めることです。具体的には今回の出来事を子どもたちに相対化させるような躾や教育を施すことに求められるでしょう。
 
一例を考えてみましょう。ちょっとショック療法的かもしれませんが、僕はこの教員による教員イジメをみて、子どもたちの一部がこれを真似するといった状況が出現する環境のほうが、ある意味でまだ健全と考えます。これくらいのレジリエンスを備えた子どもたちのほうが、むしろ強靭な人格、心の骨を作ることができるはず。なぜなら状況を相対化するきっかけになるからです(もちろん、絶対ではありませんが)。そうすることでイジメに耐えうる、そしてこれを解決しようとする心の育成が可能になる(「イジメをなくす」「イジメを回避する」といった現在の方針は、全く現実的ではありません。「イジメがなくなる」というのは人類が絶滅することとイコールです)。アメリカ的(あるいは森田療法的)なやり方ならば、この問題について子どもたちの間で議論をさせるという方法もあります。
 
残念ながら、今回の学校側の配慮は明らかに過保護と言わざるを得ません。心のカルシウムの投与と身体の訓練を私たちは考える必要があるのではないでしょうか。「簡単には折れない心」を養ってあげること。これこそが「心のケア」と考えます。
 
カレー給食の中止は認識論的には完全に正解、存在論的には完全に間違いなのです。
 
 
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