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テーマパーク「リトルトーキョー」の誕生(ロサンゼルス発)

教員コラム
2024.05.09
現代社会学科
新井 克弥

アキバと化したロサンゼルス・リトルトーキョー
2024年3月、8年ぶりにロサンゼルス、リトルトーキョーを訪れた。2016年に在外研究で1年ほど南カリフォルニアで生活したとき以来の訪問だったのだけれど、その変わりようには、本当に驚かされた。
繁華街自体がどうのこうのというわけではない。街のレイアウトはそのまま。驚いたのは人の数。ものすごい観光客で賑わっていて、もはやディズニーランド並みといっても過言ではないほど。8年前は寂れまくっていて、客も閑散としており、「この街も終わり?」という印象すらあったほど。それが一変していたのだ。
もう一つ驚いたのは、街並みが”リトルトーキョー”というより”リトルアキバ”化していたこと。あちこちに、アニメグッズ、キャラクターを扱う、いわゆる「サブカル」店舗が建ち並ぶ。しかも、これらに混ざってラーメン屋、ガシャポン屋、80年代シティポップを扱うレコード店があるところまで秋葉原そっくりなのだ。
これはいったいどうしたことか?

日系人が作り上げたリトルトーキョー
リトルトーキョーはロサンゼルス・ダウンタウンのど真ん中、ロサンゼルス市庁舎の目と鼻の先、ドジャーズスタジアムまでも車で6分の一等地にある。元々、このエリアにはドイツ人が住んでおり、かつては「リトルベルリン」とも呼ばれていたという。しかし19世紀末、このエリアに日本人が住みはじめると、20年も経たないうちに人口3万を超えるコミュニティを作り上げるに至った。
当然のことながら、ロサンゼルス住民はこれに脅威をおぼえるようになる。自由の国アメリカ。だが、それは表面だけで、実際には激しい差別があった(残念ながら1950~60年代の公民権運動後の現在も、これは根強く存在する)。黒人に対してはもちろん、それ以外の有色人種などに対する差別も厳しい。そんなムードの中で、ごく短期間の間に町の一番おいしいところにコミュニティを、いわば「異分子」である日本人が作り上げたら、それは気持ちのよいものではない。

「この連中は、われわれの街を乗っ取ろうとしている」

日本のアジアでの勢力拡大や日露戦争での勝利に伴って日本とアメリカの関係は次第に悪化し、アメリカ国内では排日ムードが高まっていった。そして1924年には排日移民法が制定され、これ以降、日本からの移民は禁止される。
だが、この時点でリトルトーキョーを占める日系民はすでに二世。その多くは日本への思いを抱きながらも国民としてのアイデンティティーはもはやアメリカにあった。1934年8月から開催されるようになった「二世ウイーク」という街をあげてのイベントでは、日系住民が総出で日本の伝統を祝うとともに大きな星条旗を掲げて行進し、アメリカへの忠誠を誓うといった催しが繰り広げられた。日系コミュニティの連帯は差別を受けることで却って高まっていったのだった。
しかし、こうした賑わいは第二次世界大戦の勃発とともに一気に葬り去られることになる。1942年大統領令9066号が発せられると、一世、二世にかかわらず、すべての日系はすべての財産を没収され、国内各地の強制収容所に収容されることに。これによって日系がいなくなったリトルトーキョーには黒人が住まうようになり、その名も「ブロンズビル」と呼ばれるようになった。
しかし、日本人コミュニティの結束力は強力だった。戦争終了とともに人々はここに戻り、リトルトーキョーを再建したのだ。街は、以前のような賑わいを取り戻すことになった。
だが、1980年代、その繁栄に限りが見え始める。当初、日本の企業の多くがこのエリアにアメリカ本社や支店を設け、この周辺に住民が暮らしていたが、賃料値上がりなどもあり、活動の中心をサウスベイと呼ばれる、ここから南へ一時間程度のエリア(ガーディナ、トーランス、オレンジカウンティなど)と拠点を移すようになったのだ。また、日本も高度経済成長、バブルを経て、アメリカでの展開をこのエリアに限定する必要も薄れてきた。そして、戦後世代と戦前世代の断絶もあり、リトルトーキョーは自らのアイデンティティーを確認する空間としての機能を失っていった。そう、日本人が1カ所にまとまって暮らす必要は、もはやなくなったのだ。それに伴って、次の世代である韓国人、中国人がこのエリアに居住し始める。リトルトーキョーはその名と表層はさておき、様々な人種が同居する街へと変貌を遂げたのだった。

復活した賑わい……しかし
話を元に戻そう。2016年、リトルトーキョーを訪れた際には、街がすっかり閑散としていたことを冒頭でお話しした。街の賑わいが寂れたピークだったのだろうか。それが2024年には大変な賑わいとなっていた。

「すわ、日本人コミュニティ復活か?」

残念ながら、事はそう単純ではないようだ。大変な賑わい、だがこの界隈を徘徊する人々の中に日本人はほとんど見られない。また街はさながらアキバ的様相を呈していた。
つまり、この賑わいはかつてのようにコミュニティがバックボーンにあるそれとは、もはや異なってるのだ。ご存知のように、この十年、日本文化はアニメ、マンガ、日本食を中心に世界を席巻するようになっている。世界中の人々がドラゴンボール、セーラームーン、鬼滅の刃、マリオ、ポケモンに馴染んでいる。寿司屋やラーメン屋も世界の都市部ではさして珍しいものではなくなっている(フィリピンではたこ焼きが国民的人気を博している)。言い換えれば、ここに商機がある。そこで、リトルトーキョーはこうした「クールジャパン」を再現するテーマパークと化したのだった。
日本には東京ディズニーランドがあって、日本人が多く訪れる。東京ディズニーランドの裏テーマは「ここはアメリカ」。日本人がメディアを通じてステレオタイプ的にイメージしたハイパーリアルとしてのアメリカが、そこには再現されている。
そして、リトルトーキョーは、ちょうどこの裏返しの空間といえる。つまり、アメリカ人がイメージしたステレオタイプとしての「クールジャパン」を再現する場所。
東京ディズニーランドはディズニー社ではなく、三井不動産と京成電鉄が合弁で設立したオリエンタルランド社が運営している。つまり「日本人の、日本人による、日本人のためのアメリカ」が、そこにはある。そして、そこにアメリカ人はいない。
リトルトーキョーは日本人ではなく、その多くが韓国人や中国人によって運営されている(たとえば、リトルトーキョーの一角でストアが集まる複合ビル・リトルトーキョースクエアにある店舗はそのほとんどが韓国人経営だ。中には韓国焼肉や韓国化粧品の店も)。つまり「日本人以外の、日本人以外による、日本人以外のための日本」。そのステレオタイプがテーマパーク・アキバとして再現されているというわけだ。そして、そこに日本人はいない。しかし、そんなことにはお構いなく、街は空前の賑わいを見せている。

アメリカ=移民文化の必然的流れ?
滞在時、インタビューを受けてくださった日系アメリカ人文化コミュニティーセンターのオートディレクター・小坂裕和氏、曹洞宗大本山北米別院禅宗寺国際布教主任・小島秀明氏は、共にリトルトーキョーの日本人コミュニティのゆくえについて否定的だった。街は、次第に形だけを残して、日本人が去って行き、日系コミュニティも縮小、消滅していくかもしれない……
しかし、こうした文化のうねり、よく考えてみれば、それこそ移民の国・アメリカそのもの変貌の仕方と言ってもよいのではないか。20世紀前後、日本からロサンゼルスにやってきてリトルベルリンをリトルトーキョーに変えた。そして今度はリトルトーキョーを韓国人、中国人が変えようとしている。それだけのことなのかもしれない。ただし、アキバという「クールジャパン・テーマパーク」として。

クールジャパンを求めて日本人以外の観光客が大挙して押し寄せる。
3月24日、MIYAKO HOTELの壁に、突如、大谷が出現した。
店内はアニメグッズで埋め尽くされている。店の数も10件くらいはある。
ガシャポン専門店

80年代シティポップ専門店

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