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中国揚州に発見された隋の煬帝の墓

教員コラム
2015.10.02
現代社会学科
菅野恵美

[隋の煬帝って誰?]
 みなさんは隋の煬帝(ようだい)をご存知でしょうか。世界史の教科書には必ず登場するので、何となく名前は覚えていると思います。隋は6世紀終わりに、中国の分裂時代・南北朝時代を終わらせ、中国を再統一した王朝です。隋の煬帝は二代目の皇帝で、また隋最後の皇帝でもありました。この隋の煬帝の墓が、2012年12月に中国の揚州市で発見されました。煬帝墓の隣からは蕭皇后(しょうこうごう)の墓室が見つかり、共に礼を尽くして埋葬されていました。今年(2015年)8月、公開前の煬帝墓を見る機会がありましたので、ここで紹介したいと思います。
 
煬帝墓(400)
煬帝墓:レンガが組まれた墓室が奥に見える
 
[揚州ってどんな町?]
 揚州は上海の北西約270kmに位置する運河に面した町です。この町には鑑真が住職を務めていた大明寺が今も残ります。また、遣唐使の到着地でもありました。838年に円仁が遣唐使らと共に逗留し、ここから大運河経由で長安へ出発しています。日本とも縁の深い歴史のある都市です。元の時代には、マルコ=ポーロが訪れるなど、揚州は海のシルクロードの玄関口として、要衝の地でした。
 
大明寺の仏舎利塔から西望する(400)
鑑真ゆかりの寺、大明寺の仏舎利塔から揚州市の西を望む:手前は旧市街で、奥には新興住宅地が広がり、煬帝墓はその開発地に発見された。
 
[どうして揚州に煬帝の墓があるの?]
 隋の都は大興城と言い、今の西安市に当たります。続く唐王朝はこの都の名前を長安城と変えました。黄河に近い場所ですから、煬帝が埋葬された揚州からはとても離れています。なぜ都の近くではなく、遠く離れた揚州に埋葬されたのでしょうか。それを説明するためには、隋が行なった事業について振り返らねばなりません。
 世界史の教科書で隋の事業として説明されるのは、大運河の掘削と高句麗遠征です。これらはとても有名ですね。隋は南朝の陳を滅ぼすために、都から黄河に連結し、南は長江そして杭州へと向かう大運河を造りました。でもこれは一から造ったわけではありません。昔の河道や運河を整備し連結したものです。揚州は大運河が長江に連結する、要衝の都市でした。煬帝は気候が温暖で産物に富む江南地域(長江下流域)を気に入り、度々遊興のために運河の古都、揚州を訪れました。
 一方、煬帝は東北方向の北京地域へ向かう運河も整備しました。これは、高句麗へ遠征するためで、隋は高句麗が遊牧部族国家の突厥(とっけつ)と連携しないよう、高句麗を討とうとしました。隋が中国北部を統一できたのは、突厥が東西に分裂して弱体化したからですが、再び突厥の勢力が盛り返したため、隋は突厥と高句麗の連携の動きを防ごうとしたわけです。高句麗遠征は三度とも大失敗に終わり、煬帝の下で重い税負担と徭役に耐えかねた人々は、反乱を起こしました。史上例を見ないほどの数百の反乱が起こったそうです。
 この激しい反乱が巻き起こる最中、煬帝は身の安全を図るために揚州に滞在し、政治から目を背け、揚州の宮殿に籠もり酒宴に明け暮れていました。危機感を募らせた煬帝の家臣は、とうとう煬帝を殺し、隋王朝はここに幕を下ろしたのです。遺体は一度別の場所に埋葬されました。
 唐代になり王朝統治が安定し、二代皇帝・太宗(李世民)は煬帝を今の場所に丁寧に埋葬しました。これが今回発見された墓です。
 
[どうして煬帝の墓だと分かったの?]
 では、この墓が煬帝のものだと断言できるのはなぜでしょうか。墓からは高貴な副葬品と共に「墓誌銘(ぼしめい)」と呼ばれる文字が彫られた石板が発見されました。ここに隋の煬帝の名と、揚州で崩御したことが記され、煬帝墓の決定的証拠となりました。墓室からは歯が発見され、年齢は50歳前後と推定されています。
 実は、煬帝の墓は今回の墓だけではないのです。複数存在しています。史料によれば煬帝が殺害された直後、そして更に唐の高祖・李淵によって、と何度か埋葬されているのです。煬帝墓と伝承されている墓は、他に三つあり、今回発見の墓は煬帝の最終埋葬地だと思われます。
 
[煬帝墓の今後と日本と揚州の関係]
 現在、この煬帝墓の墳丘は建屋によって覆われ、蕭皇后の墓とともに保護されています。まだ一般に公開されてはいませんが、公開に向けて準備は着々と進んでいます。揚州市はここ一帯を遺跡公園として管理するようです。実は、今回の発見は不動産開発による別荘の建設がきっかけとなりました。私の参観した時にはまだ、周辺に完成済みの別荘が並んでいましたが、これらはまもなく取り壊されるそうです……。歴史に重きを置くことで最終的に揚州市の不動産価値全体が上がるという、大局から見た判断でしょう。
 揚州は前述の通り、運河の畔の古都で日本とも縁が深い都市です。ですが、現在鉄道が通っておらず、上海からのアクセスがよくありません。そのため今後、高速鉄道を通す計画があると聞きました。何と、駅の屋舎と煬帝墓の博物館には、日本人の有名建築家の設計が使われるそうです。政治ではまだぎくしゃくしている日中関係ですが、経済と文化の面では関係の回復が早く表れています。隋煬帝墓も運河遺跡と共に保護され、今後揚州の付加価値を一層高めていくことでしょう。そして日本との関係も、一層太く長く続いていくと思います。
 
煬帝墓の建屋(400)
煬帝墓の上を覆う建屋
 
 
 
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