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藤岡保夫と”バリの父”三浦襄の関係–その一コマ–

教員コラム
2019.06.07
現代社会学科
橋本 和孝


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 昨年、本学の教員コラムでバリの父と言われた「三浦襄の墓」について執筆しました。
https://shakai.kanto-gakuin.ac.jp/news/category/column/column-1519/
 そこでは、「誰もが翁を『私たちの父』だと思っていて、翁の親切心はすべての人に知られています。幾千人もの人々が翁に助けを求めました。翁は人々を助けるために地位、ランク、尊卑、国籍を区別しませんでした」というインドネシア語の慰霊碑の一文を紹介しました。
 
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 その後、三浦襄について小論を書く機会を得ましたが、多忙に身をまかせ、せっかく入手した資料も放置したままでした。そこで、この機会にコラムの続編を書くことにしたいです。今回紹介する資料は、藤岡保夫『バリ島の想い出–特に稲作を主として–』(1981年)および『思い出すことなど–第3章 バリ島編–』(1985年)です。どちらも簡単には手に入らない非売品です。
 藤岡保夫という方は、農学者、狭くは植物病理学者で台湾台北市で生まれ1958年時点で広島農業短大の助教授と紹介されていました。『バリ島の想い出』は、まえがきで「第二次世界大戦中の昭和17年暮れに私は三井農林の職員としてバリ島に行った。
 任務は棉作りであったが、仕事は殆んど部下に任せて、行政の出先機関である民生部の管轄下にある農業試験場の運営に当った。稲や棉の品種改良、耕種法改善に終始したが、中途にして終戦、全てを放棄して帰国した」と述べています。この冊子のなかで三浦襄について、「三浦さん!彼は筆者が今までに出あった最も尊敬する人3人の中の1人である。戦時中バリ人からは『バリの父』といわれた人である。戦時中、南支派遣軍からスラウェシ(セレベス)のマッカサル市長を懇望されたが断ってバリに留まった人である」(42ページ)と最大級の賛辞を贈っています。
 
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 では何故藤岡保夫氏はバリ島に向かったのでしょうか。そのことは、『思い出すことなど』に書かれています。
 「素木先生に呼び出されたので、お伺いすると『今、三井農林が政府から呼び出されて、棉作りにインドネシアに行くことになったが、棉作りの専門家を探している。僕が相談を受けたのだが、君は行かないか?』という用件であった。…上京して東京にある三井農林の本社に、素木先生のお供をして訪れ、専務理事と話合った。専務理事は“君はバリ島に行ってもらうが、棉作りのほうは技術的指導をするだけで直接仕事に関わらなくてもよい。今後、日本軍がオーストラリアに進駐すると思うが、どういう仕事を担当すればオーストラリアに進出できるかということに専念してくれ”との事であった。」(1~2ページ)
 昭和17(1942)年の暮れ、横浜港を出帆、船は秩父丸【2万トン】であったと言います。藤岡氏は、バリ・ホテルに宿泊したと書いています。バリ・ホテルは、現在も名称が変わりましたが、存続しています。
 素木先生とは、昆虫学者の素木得一台北帝国大学教授です。また三井農林は、元々、1909(明治42)年に「三井合名会社」として設立されました。1927(昭和2)年には「三井紅茶」を発売しています。そして、1931年にブランドを「日東紅茶」に改称したのです。やがて「日東拓殖農林株式会社」として分離独立後、1942(昭和17)年に「三井農林株式会社」に名称変更したのです(「三井農林のあゆみ」https://www.mitsui-norin.co.jp/company/history.html)。
まさにこの昭和17年に、藤岡保夫氏は、三井農林の社員となったのです。
 
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 さて敗戦後の昭和20年の8月15日以後とみられますが、以下の記述が『思い出すこと』に書かれています(長洋弘は8月25日以後と記述しています【『バパ・バリ三浦襄』2011年、197ページ】)。
「或る日、三浦さんが来られて、
三 “試験場に2~3袋でよいが、セメントはありませんか?”
私 “ありますから差上げますが、何に使うのですか?”
三 “私の墓を作るのです。”
 
 私はびっくりしてどうなっているのか判らぬまま問答を続けている内に、三浦さんの自決の意志を知った訳である。 …8月も残り少なくなった頃のことであるが、 或る日、“これからバリ人にお別れの言葉を述べにバリ中を廻りますが、貴方も一緒に行きませんか?”と誘われ,私は嬉んでお供をした。各地毎に参集したバリ人に対する講演の内容は徹頭徹尾、謝罪の言葉であり,又将来に対する激励の言葉であった」(6ページ)。
 この自決と贖罪の背景には、「終戦後、『日本人は戦いに負けると自決するとバリ人に教えた。所が此の度は天皇陛下の命令で自決することが出来ない。それではバリ人に嘘をついた事になったので,日本人を代表して自分が自決する』と宣言した」(『バリ島の思い出』42ページ)という背景があったのです。さらに敷衍するならば、オランダからインドネシアを解放するという大義のために、日本海軍の嘱託として同行したにもかかわらず、その約束を果たせなかった責任をとることにあるのです。
 私たちは、戦前の日本による侵略戦争の下でも、日本軍とバリ島民の間に立って、バリ島民のために心血を注ぎ、自ら命を絶ったキリスト教徒がいたことを銘記しておきたいものですね。
 


 
 
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